2009-08-27

趣味について思い煩っていたら泣けてきた

雑談です。

お金儲けに役立つかもという助平心から、某資格を受けようと思い立ちました。そこで毎日のスケジュールを見直して勉強時間を捻出しようとしてみたのですが、今までしていた何かをやめるというのは心苦しいものですね。

休日は家族と時間を過ごす。これは省くことができません。近頃では平日の余暇的な時間は、読書をしているか楽器の練習をしているかですので、削るとしたらこれらです。しかし僕にとってこれらの時間は生活に必要な時間なのではないか、という大いなる心理的葛藤に悩まされます。自己弁護とも言いますが。

そこで、僕は読書と楽器を心から楽しんでいるだろうか、これらに染まった頃は何を思っていただろうか、と思い返してみました。難癖をつけるのは得意ですので(特に他人につけるのは得意です)、きっと批判的に眺めれば勉強よりも優先順位が下がるだろうと予感したのです。目論見は予想以上に的中して、僕は一体何のために時間を浪費していたのだろうと絶望しました。本を読んでもブチブチと文句をつけたくなるし、楽器の練習をすると自分の拙さのあまり玉川上水に身投げでもしてみたくなります。さらに悪いことに、著者のあれこれに不満を覚えたり、一緒に演奏する人の粗を探したりしています。染まった動機も結構不純なものがあるようで、人からよく見られたいとか、実力以上に背伸びをしたいとか(向上心を否定するわけではありませんが、見栄っ張りなのです)、結局第三者の目がなければ僕が趣味に時間を割くこともなかったのではないかと暗い気分になりました。

あんまりやるせない気持ちになったので、軌道修正をすべく趣味に時間を割いていてよかったという思い出を辿ると、ぽちぽちと出てきます。こうしたことを思い出して、ここのところの僕の荒みようと比べると、知らずに目頭が熱くなります。そこで以前見た大道芸風サックスアンサンブルを思い出して、YouTubeで探したらなお涙腺がゆるみます。他人を楽しませようとするのって、なんて尊いことなんだろう、と。



(ポニョだけだと単なる色物にみえてしまうので、少しシリアスなものも)


当初の目論見としては趣味に時間を費やすことを抑えて勉強するつもりだったのですが、感情を抑えるといつかしら無理が来るなと思い直して、ぼちぼちと勉強をすることに方針を変えました。以前目的達成のために無理して仕事を続けたらてきめんに病気になった経験もあるので、資格だってなるようになるさと軽い気持ちで付き合っていくことにします(サムライ業をなめるな、という意見は甘受します)。あとは趣味をきちんと楽しめるように態度を改めようと反省した次第です。落ち込みましたが、トン・コープマンの「チェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV1052」を大音量で聴いていたら、平常心を取り戻しつつあります。不思議。

ついでに近頃読んだ本。
リキッド・ライフ―現代における生の諸相』(ジグムント・バウマン
なぜビジネス書は間違うのか ハロー効果という妄想』フィル・ローゼンツワイグ
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?』ジェフリーフェファー、ロバート・I・サットン
どれも大変面白かった。僕がお世話になったさる人物のポリシーは「生きることが社会科学である」なのですが、『リキッド・ライフ』はそれを地でいっている社会学理論の本です。この本までくると理論書と言うより芸の域に達していますが。『なぜビジネス書は~』と『事実に基づいた経営』は似た内容で、企業の行動を評価したり決定したりする際に相関関係と因果関係を混同しないようにとか、バイアスのかかった視点を持たずに合理的に観察するようにとかいう議論でした。タイトルの通り(原題は"The Halo Effect"と"Hard Facts, Dangerous Half-Truths, and Total Nonsense: Profiting from Evidence-Based Management"です)「ハロー効果」と「事実に基づく」がこれらの本のほとんどすべてです。

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