2010-10-03

『憂鬱と官能を教えた学校』

憂鬱と官能を教えた学校』(菊地成孔・大谷能生)を読みました。以下、音楽好きでも書いてあることが外国語のように聞こえるかも知れません。

大筋としては、いわゆる「バークリー・メソッド」を軸にして、実学にするか教養にするか、講義をしながら模索していったようで、本書はその講義録です。

実学の部分は、演奏者・作曲者・編曲者として必要な技能を身につけることを主眼としていて、講義が短いこともあってか、これははっきり言ってうまくいっていません。音楽の技術って身体化しなければいけないようなところもあるから、数ヶ月で身につくものではありませんしね。すごく駆け足で通り過ぎていく講義録を、僕はいちいち音を鳴らしながら確認していったのですが、やっぱりつらいです。頭でわかっても、演奏しようとしたらすっぽりと頭から抜け落ちますし、感覚的なものを身につけなければいけませんから。

これに関しては苦い記憶もあって、かの記念碑的名著であると同時に悪書で有名な渡辺貞夫さんの『ジャズスタディ』を熟読して、アレンジの幅を持たせようと試みたことがあるのです。結果として僕がいじったサックスソリ(サックスパートで一緒になって、ハーモニーを伴ったソロをするようなものです)では、凝ったものができたと自画自賛しましたが、僕を除く演奏者からは酷評を受けました。

それはともあれ、本書は教養の部分がとっても面白かったのです。それは20世紀中盤からメジャーになった音楽理論体系(体系と言っても柔軟なものです)と、その理論体系がもたらした商業音楽への貢献と、今後の可能性及び限界性を理解することなのですが、著者たちは実に幅広いところから話を持ってくるのですよ。

そもそもバークリーの教程が、倍音の理論からはじまって平均律を基礎としているそうですが、そこからが実に長いのです。平均律自体J.S.バッハの頃にポピュラーになったものだそうですが、それを記号化していったのが後の商業音楽の隆盛につながるというのです(少し怪しいと思います。ギリシャの旋法はそれではどうなるのかというのが疑問です)。記号化することで機械的な操作が可能になり(とはいうものの、結局のところ感覚に帰するものもあり)、機械的に操作することでより複雑に、より幅広く豊かな音響を作り出していくことができた、というのです。

最もこの流れも、現代的な(というのはここ数十年を指します)音楽ではハーモニーの操作をこれでもかと言うほどに複雑にして、一見無調性に聞こえるものもありますし、あえて調性を無くす音楽(現代的クラシックに顕著)もありますし、コード音楽でありながら進行感を無くす音楽もあります。このあたりに僕はなかなかついて行けないのですが。

途中コードやモードやリズムのがちがちに記号的・理論的なところ端折って、商業音楽の歴史や展望をさらうだけでも充分刺激的です。ただその際に、音は鳴らしながら読んだ方が良さそうです(というか、必須だと思います)。

それを読み終えて(図書館から借りたのでやむなく返却し、その後購入しました)、ふと気になったので『絶対音感』(最相葉月)を読みました。この本は出版当時僕の身の回りで多くの人が気になると言っていた本でしたが、読んでみるとなんとなく満足感が少ないです。絶対音感は音楽をする人にとってそう珍しいものではなく、あると便利な能力だけどなければないでどうにかなるもの、というのはわかりきったことです。絶対音感が邪魔になる人もいるし、逆に絶対音感がなくとも1セントの違いを聞き分ける人だってざらでしたし、特定の楽器ならほぼわかる人とか、A音だけ正確に出せる人とか、十人十色です。音感と技術と表現力はリンクはしているかも知れないけれど、案外独立してもいたりして、結局よくわからないものです。というわけで、本書に書かれていることがすごく当たり前なことに感じました。

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