2010-11-13

『鍵盤を駆ける手』

鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』(デヴィッド・サドナウ)を再読しました。本書は『病院でつくられる死』で有名な社会学者が、ジャズピアノの即興演奏を学ぶ課程を記録したものです。前に読んだのは学部生の頃で、その時には「現象学的社会学の名著」として読んだのですが、なんだかぴんと来なかったのです。

再読してもぴんと来ませんでした。とりあえず社会学の本として読めば、言語化しにくいところを精密に言語化したわけです。ジャズの即興演奏は意識的に行うものではなく、かなりの部分は身体感覚でやりとりするようなものです。こうしたことを内輪にしか通じない言葉では「制度化」とか言ったりましますが、似たものをあげるなら言語や文字を使うようなものです。練習過程で意識的に言語を使ったりしますが、それが道具として個人に定着すると、意識とはあまり関係なく言語を用いるようになります。上手に言葉を使える、というだけでなく、負の側面をあげるなら言語のルール内で思考や表現をするために、一見すると自由な道具を用いているようでその実不自由だったりします。

本書の方法論的なところにまずは疑問を持ちました。試みとして面白いとは思うのです。また、楽譜や音源を出さずに、徹底して「鍵盤の上を動く手のかたち」にこだわっているところも面白いです。ところがなかなか僕はぴんと来ません。果たしてジャズピアノを習得する方法として、サドナウのとったものが適切だったか? 即興演奏の性質はサドナウの個人的体験から一般化できるか? ミクロ社会学につきものの疑問だけれど、ジャズの即興演奏というあまり万人が経験するものではないことをフィールドとして、しかも観察者と被験者が同一人物で(実際こういうのはよくありますが)、まるっきりの見当違いという可能性が払拭できるのか?

また、ジャズの即興演奏というフィールドに関して、分析が適切だったかどうかも気になります。サドナウの「ジャズの即興演奏」に関する記述が、ピアニスト一人で完結できるところに尽きているので、インタープレイはどう分析するのでしょう。それに即興演奏として分析しているものが旋律だけ(つまり、ピアノで言えばほとんど右手だけ)というのも引っかかります。コードについては練習初期に形をたたき込んだことが書かれていましたが、それだけですむとは思えないのです。また即興演奏と言っても、ジャズの巨匠たちの録音を聴くと、別テイクの演奏も似通ったアドリブソロをしていることが多いです。つまり、まるっきりその時その場所でゼロから産み出されるものではなく、レコーディングには何らかの青写真を用意して意識的にコントロールすることが多い、ということです。

という、なんだかぼやけた感想です。

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