2010-11-17

『天才と狂人の間』

なんと言うことなしに、大正時代のベストセラー作家である島田清次郎の事が気になって、青空文庫から『地上 地に潜むもの』をさくさくっと読んだのですが、僕が現代人であるせいか、これという感慨を得ませんでした。いろいろと鼻につくところが多く、何よりも登場人物の誰も彼もが、まるで絵に描いたような(まあ小説に書かれているのですから、絵に描いたようであることは必然とも言えますが)人物であることに閉口しました。わけても主人公の大河平一郎の超人ぶりというか、世間を見下したようなとでもいうか、人類よりも一段高いところにいることに違和感を覚えたのです。

とはいうものの、当時(白樺派とか赤門派とか三田文学とか早稲田文学、後には文藝春秋の執筆陣とか)の作品とは明らかに一線を画しているというのはわかります。どちらかというと文芸作品と言うよりはプロパガンダや説教のようなもので、自然主義とか反自然主義とかいう文学史的流れとは全く違って、強いて言えば(僕の苦手な)人道主義的な性格が見え隠れします。ただし人道主義といってもあまりにも我が強くて、武者小路や志賀や有島といった作家のものとも(あまり多くを読んでいないので偉そうなことは言えませんが)相容れません。

それで島田清次郎の伝記(のような小説のような)である『天才と狂人の間』(杉森久英)を読みました。どうにもよくわからなかったのは、島田は非常な勉強家であったと言うことですが、読書から何を学んだのだろうかということです。当時の小説家にしては珍しく哲学や思想も読み、多くの海外小説も読んだとのことですが、そこから小説についてよりも政治主張を多く学んだとしたら、小説が崇高なプロパガンダになりそうです。『太陽の法』だってベストセラーなのですし。

つきあうとしたら始末におえない奴。傲慢で人とうまく交われず、相手にされないために孤高を貫き、古くからの友人知人は徐々に離れていきました。作品に関しては『地上 地に潜むもの』は完成度はさておきこれまでにない形の小説として成功し、社会主義の勃興する時流に乗り、続編が出れば同業者や批評家には覚えがめでたくなくとも飛ぶように売れるという。また僕には当時の読者層がよくわからないけれども、これを読んで鼓舞されたり熱狂したり熱いため息をついた人もいるのかも知れません(時代というものでしょう)。かなりの部分は時代的な偶然で作品が市場に認められたという印象を受けました。島田清次郎の作品に関しては、ケータイ小説がよく売れたことにどことなく似たものを感じます。

本書のタイトルである「天才」と「狂人」に関しては、行動特性から推測すると、かなり早い時期(少年期でしょうか)からの抑うつ傾向の混じった統合失調症であるとしか思えません(本書では早期痴呆症で収容されたとありました)。彼が早期の治療を受けていたら(といっても当時は薬物療法なんてありませんので、治療=社会的な死ですが)、彼の人生や文学的潮流はどのようになっただろうと考えるとすこし悲しくなります。

なんだかあまり気分の良くない読書をしましたので、楽しくなれるような事を考えました。いま『アミバ天才手帳2011 ん!?スケジュールをまちがったかな…』が世間を賑わせていますが、これをアミバ語録から島田語録に変えれば、本物の「天才手帳」がつくれそうです。熱き青少年にぴったり。

なお、本書を読んでジャーナリズムのあり方に対する警戒心や、幼い頃の貧しい境遇から生じたトラウマティックな功名心や、祖先・一族のかつての繁栄からくる妙な自尊心や高慢などを教訓として読むことも可能ですが、僕はそういう読み方はおすすめしません。どんな本からも教訓は得られますが、教訓とするにはあまりに特殊ケースなので。

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