2010-11-12

『奇跡も語る者がいなければ』

奇跡も語る者がいなければ』(ジョン・マクレガー)を読みました。「…で、…で、…で」「…と、…と、…と」という感じで連綿と続く文体にはじめは戸惑いましたが、読み進めると何となく心地よくなってきました。

読み終えてから全体を思い返すと、実に凝った構成をしています。本書には軸がふたつあり、ひとつは夏の終わりの一日(プリンセス・オブ・ウェールズの命日)の、とある通りに生活する人々の描写で、もうひとつがそこの住人だった女性(眼鏡をかけた女の子)の3年後です。

3年前のその日夕刻に事件が起こったことが冒頭でにおわされますが、読み進めるまでは事件は明らかにされずに、未明から淡々と時間順に描かれていきます。そこに登場する人たちのほとんどは名前も明らかにされませんが、それらの人々が織りなす日常が綿密に綴られています。自分が世間を見たときには当然主観のために、自分を主人公と設定しがちです。しかし生活のほんの一時期に線が交差した人たちにもそれぞれの主観があるわけで、どこかひとつの視点というのを排して鳥瞰的に描写すると、どれもがみな物語の主軸となるような、そんな愛らしさが感じられました。

通りにはごく普通の人々が住んでいますが、その普通の人々の出来事がすべて誰か一人の身に起こったこととすると、その出来事は誕生から死までの様々なイベントを含んでいます。例えば不妊に悩んだ夫婦は、双子と一人の女の子に恵まれるといった誕生の物語を含んでいます。出征直前に結婚し、無事帰還した老人は、夫人との出会い・再会から現在に至るまでの恋物語を含んでいます。その同じ老人は病に冒され、遠くないうちに死にゆく苦しみの物語を含んでいます。火事によって手に火傷を負った男性は、幼い娘との生活の物語や、妻を亡くした離別の物語を含んでいます。通りの建物をデッサンしている学生は、風景と人物の関係を示唆しています。その他いろいろあげればきりがありませんが、そうした普通のことの特別さに自覚的だったドライアイの男の子は、自分の住んでいる通りの様々な些細なものを収集し、また写真に収めようとしていました。その姿は本書のひとつの軸とぴったり重なるように感じられます。

もう一つの軸となる眼鏡をかけた女の子の3年後も、予定外の妊娠という問題を抱えてどう対処するか悩んでいたりと、やはりいろいろな物語を含んでいますが、ドライアイの男の子の弟と出会って3年前を振り返ることによって、本書全体としては名もなき種々のかけがえのなさをはっきりとさせています。名前を知ることで人は物事に深くコミットしていきますが、それとは関係なく流れゆくかに見える物事にも、どこかで関わりを持ち繋がっていくことが鮮明になっていくのです。3年後に一人称で描かれる出来事は、3年前に三人称で描かれる出来事と「奇跡的」にリンクして、「名前」「双子」「生死」といったものでふたつの時間軸が捉えなおされ、3年前に起こった事件で結び合わされます。

本書のタイトルにもなっている、火傷を負った男が天使を見たがる幼い娘に語りかける一節を引用します。

娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。

奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。

それを自覚するかどうかはともかく、まさにそのような小さな奇跡の積み重ねが日常で、日常的な奇跡は単なる偶然に過ぎないかも知れないけれども、その確率は考えられないほどに小さなものです。ちっぽけな(けれども一体一体が異なる)人形がたくさん集まって、全体としてひとつの像を結んでいる(ひとつの作品だったり、ひとつの風景だったり)、といった場面が本書のどちらの時間軸にも現れ、形を変えながらふたつを繋げていますが、本書が描いているのは静的にはそうした像であり、動的にはその像が存在し変遷することの奇跡なのだろうと思います。火傷の男が語るように、生活の色が濃くなって豊かになれるような気がする、気持ちの良い小説でした。

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