2009-07-15

ひとがみなわれより○○に見ゆる日よ

毒を吐きたくなる時もあります。というか、今がまさにその時で、悪意と自己憐憫と独善に溢れて夜郎自大になっています。

誰も彼も、仕事上で思い通りには動けないというのは重々承知しているのですが、中小企業の代表なんぞをしていると従業員の皆様に対して「もう少しきちんとできるだろう?」と思うことしきり。その内容というのは決して本人以外には話せるようなものではなく、本人に話をしても暖簾に腕押しだったりすると、もう飲み屋のサラリーマン状態が恋しくてたまらなくなります。もちろん誰にも話しませんが。

愚痴を言いたい。とはいうものの、上司の悪口ならばたいして害はないけれども、働いてくれている従業員の悪口すなわち経営者の悪口ですから言えるようなものではないし、言ってもさらに悲しくなるだけです。

「王様の耳はロバの耳」のかわりに、サックスを吹きました。今の活動拠点となっている田舎の市民吹奏楽団にお邪魔して(僕は楽器も奏法も音もジャズ風なので、はっきり言って邪魔です)憂さを晴らそうとしたところ、ここでもまた「もう少しきちんとできるだろう?」が発生。べらぼうに上手い人もいるのですが、楽団全体としてみるとリズム・メロディ・ハーモニーのすべてが拙いのです。別の日に馴染みのバンドで練習をすると、実に安心して演奏をすることができて、その心地よさは月とすっぽん・谷崎潤一郎と2ch.netの書き込み・スタン・ゲッツと僕くらいの差がありました。

そんななかで読書に逃避しています。かつて読んだ『現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて』(アルベルト・メルッチ)を手に取りました。今回久々に本書を読んだのも、現代社会の分析みたいな論文を読んで、そういえば同じようなことを読んだことがあるな、と思ってのことです。ところが日本語訳を読むととても難しいことが書いてあって、さっぱりわけがわからない。僕の理解力が低下しているのが最大の理由と思いますが、訳文も「もう少しどうにかなるだろう?」な感じです。いちいち付き合わせてはいませんが、「新しい社会運動」界隈の社会学的術語がいまいちきちんと訳されていないような気がします。あと副題は意訳しすぎ。

外出時に読み終え、読むものなしの非常事態に陥ったので、コンビニに飛び込んで本を買うという初体験をしました。買ったのは『人間関係のしきたり (PHP新書)』(川北義則)です。おじいさんの知恵袋や人生の先輩の教訓といった感じの内容で、じつにすんなりと理解できてしまい(納得はできませんでしたが)、別の意味で鬱々としてしまいました。複雑で緻密な論理を追うことができないのに、短くて感覚的な訓話はふんふんと読み流してしまうという僕の態度は何かおかしいのではないか、というわけのわからない自己嫌悪です。オトナになりきれていない僕は内容にも文句を言いたくなり、人間関係のような相対的なものをどのように語ろうとも中庸に優る叡智なしなどと偉そうな感想を持ちました。

意気消沈して別の本に目を向けます。あまり気分が文学ではないので『万物理論 (創元SF文庫)』(グレッグ・イーガン)を読みましたが、期待が大きすぎたせいか何となくがっかりな読後感。エドワード・サイードの焼き直しをSF風味のガジェットにくるんで物理学で味付けをしたような印象を持ちました。未来世界には満足したのですが、その背景にある認識論や形而上学にずっと引っかかってしまい、物語の進行にいちいち「もう少しどうにかなるだろう?」とツッコミを入れてしまいました。デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウアーの説あり)はかなり死語かもしれませんが、まだまだ考え方は生きていますね。未来の物理学も少しがっかりでした。

ああ! もう! 何様のつもりなのか、毒を吐きまくりですね。花を買わなきゃ

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