2008-02-01

「炎上」を考える

「炎上」といって真っ先に思い浮かぶのが『金閣寺』という人は珍しく、近頃ではブログ・SNS・掲示板などでの「炎上」が時たま話題になる。いわゆる「祭り」に関しては素敵な指摘(『カーニヴァル化する社会』)があるので、そちらを読むととても難しいことが書いてあるのでぜひ参照いただきたいが、もっと卑近な例で考えてみた。

壊滅的につまらない結論からいうと、結局ニュータイプでもない限り、他人はわかりあえないから「炎上」する、ということだ(正義や面白おかしさを振りかざして特定個人を攻撃する、いわゆる「祭り」は考えない)。

大雑把にいって、何かをわかろうとしたときにはまず対象を観察し、それを自身の認識スキーム(シェマ)に対応させて理解する。あくまでも自分の内面化しているシェマに対応させる(あるいは自分のシェマを変化させる)わけだから、デジタルな同一化ではなく曖昧なものだ。何も理解が不可能であるということではなく、理解の結論として選択される認識状態の可能性が多すぎる、ということだ。

そうした不完全な理解には、かなり本質的な理解から、表層を眺めただけの理解まで、様々なレベルがある。僕のような凡人はシェマが小さく硬直化しているのと、理解のコストが高いためあまり本質的なところまで踏み入りたくないので、表層的な理解が主なものとなる。

表層的な理解になるからこそ、一部分だけをとってきて、一言物申したくなる。当然それは書いた人からすれば勘違いもはなはだしいので、書いた人はさらに一言物申したくなる。しかし残念ながら、書いた人は読む人を過大評価していて、読者は「ある程度」書かれている内容を理解していると思っているのだ。「ある程度」にはそれこそブエノスアイレスから東京までくらいの幅(もっと正確に言うとM78星雲から銀河系までくらいだろうか)があり、それを新橋から銀座までくらいに思ってしまうのだ。

より理解をすり合わせるためには何が必要か。「炎上」を防ぐためには、より多くの情報の交換では役に立たない。そもそも情報が多くなるからこそ「炎上」するのだ。一言でいうと、もっとゆるくて曖昧な理解を促進せよ、ということになると思うが、それについて書くのも面倒になってきたので、いつか気が向いたらつらつら駄文を綴るかもしれない。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ところで、関係ないのだけど、
ニュータイプって本当に「他人と分かりあえる」ものなのかな?
どうも僕には、ニュータイプが率先して戦争しているようにしか見えないのだが。。。
それとも、「他人と分かりあう」=「戦争しない」ではない、ということか?
ほんと、関係ないけど。

asm さんのコメント...

> taiyo
関係ない話は大好きです。

確かにニュータイプは「他人と分かりあえる」ものではなかったね。徹頭徹尾趣味的な話になってしまうけど、僕はファーストガンダム原理主義者なので、ニュータイプの本質を、意志疎通にあるととらえています。

Zみたいにニュータイプが突き進んだ話になると、究極的な隣人愛だったり、効率的な兵器だったりするけど、それはニュータイプのいろんな側面のあらわれで、taiyoのいう「他人と分かりあう」≠「戦争しない」ということになるね。

逆襲のシャアで、アムロとララアは分かりあえて、シャアとララアは分かりあえて、アムロとシャアが分かりあえなかったように、意思疎通が直接正確に行えても、立脚点が違っていては争いはなくならない、ということか。新訳Zはとりあえず考えないことにする。

匿名 さんのコメント...

立脚点が違えばニュータイプ同士も争う可能性がある。
なるほど。ということは、
ニュータイプのブログもやはり炎上するのかな?
「シロッコのブログ『シログ』、炎上のために閉鎖」とか。
いや、他人と分かりあえるなら、
そもそもブログなんか書かないか?
そう考えると、ニュータイプってのも案外退屈かもね。