2008-02-06

メッセージ性

上野駅近くの喫茶店で、芸術系の学生らしき人が会話しているのが聞こえた。曰く「誰もが納得する絵ってどんなのよ?」「……。例えばモナリザとか?」等々。結構大きな声で話をしていたので部分的に聞こえてしまったのだけれど、興味深かった(往々にして学生の集団は話し声が大きい)。その学生らしき人は「メッセージがズバッと伝わるような作品ならいい絵って言えるんじゃない?」というようなことを言っていたが、僕はそれには異を唱えたい(その場所で議論に参加するほど厚顔ではないが)。

「芸術は技術よりも何を伝えるかが重要である」という意見があることは承知しているし、それも部分的には賛成できる。しかし良い作品には良いといわれるだけの背骨がしっかりしているものだ。僕も非常に拙く楽器を演奏するので大きなことは言えないが、演奏について話をしたい。

良い演奏はほぼ例外なく技術的に上手い演奏だ。下手な演奏には滅多に良い演奏はない。そして多くの人が感動できる演奏は間違いなく良い演奏である。「一部の人間だけが感動できる」と限定すれば演奏は下手でも構わないかもしれないが、それは演奏以外の何かが付加要素として加味されているだけだ。そして悲しいことに、多くの人に向かって演奏するときには、演奏者はその場に居合わせた人全員に向かうか、それとも全員を無視しなければいけない。自分の恋人のために作曲された歌は、自分の恋人以外の人まで巻き込まなければ自己満足でしかない。

絵画も同じことだろう。自分にとって特別な人にだけ向けた稚拙な絵はその人にとっては感動できるものとなりうるが、そうした文脈を離れて絵画として人の目にさらされたときには文脈はひとまず無視され、「作品と鑑賞者」というさまざまな個別の文脈で鑑賞される。その時に鑑賞者が何を感じるかは、あくまで作品自体から発せられるものしか汲み取ることはできない。

では上手い演奏ができたらその後はどうするか。これについては持論があり、自分が最も良いと思えるものを提供することだ。他人の判断などには目もくれず、自己満足を追求することで、受け入れてくれる人は受け入れるし、そうでなければ残念でした、ということになろう。もっと卑近なところで話をすれば、人に贈り物をするときもそうだ。送られた人が喜ぶかどうかはもちろん考えるが、多くの人に贈る場合には個別に考えていられないので、自分が提供できる最良のものは何かと考える。つまり「オレ様基準」がベターなのではないか、ということだ。

もうひとつ、誰も彼もに伝わりやすいメッセージを込めることにも異論を唱えたい。伝わりやすいものには伝わりやすいだけの抽象化や単純化がなされているはずだ。「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句をひねったところで、伝わりやすい表面的な意味は極めて単純なものの、伝わるものは非常に複雑だ。言語を介さない芸術作品ならなおのこと、伝わりにくいものを伝えようとしなければならないだろう。そうでないなら交通標語でも大書しておいたり、着目ポイントに解説でも書き入れておけばよいのだ。

安易なメッセージを込めることには反感を覚える。「これこれの作品にはこれこれのメッセージが込められている」どなどと言われると、そのメッセージだけを言葉にすれば、もっと簡単かつ単純に伝わるではないかと文句を言いたくなる。

2 件のコメント:

ken さんのコメント...

誰でも納得できる絵・・
まだこんな話をしてる時点では、まだまだ甘いかなと思いますね。本当の芸術家は迷いがないはず。自分の作品に対する他人の批評などは全く気にしないはず。メッセージ性など気づく人だけに伝わればいいと思ってるでしょう。

自分は芸術家ではないのに偉そうですが(笑)

喫茶店の会話、気になりますよね。

私は前にドトールで聞いた不動産の営業トークが面白かったですね。いかに客に分譲マンションを買わせるか。

30代独身でお金を持っている人を適当に言いくるめて、30年ローン組ませてボロ儲け。公務員とか狙い目らしく、名簿も入手して電話攻勢やら何やら。固定資産税の減税があるなど何なのとか・・

すごい商売もあるもんだと関心して聞いていたことがあります。

asm さんのコメント...

kenさん、コメントありがとうございます。

ところで、本当の芸術家は迷いがないというのには疑問をもちます。あれやこれやと悩んでいない表現者は、まさに本当の表現者かあるいは迷惑な人(両方とも同じ意味かも)ですから。甘いとか甘くないとか、僕には判断できません。

kenさんが別な場所で書いた「心を込めるとは」という文章に触発されたのですが、僕の言いたいことは「いくら心やメッセージを込めても、自己満足な、あるいは下手なものはやっぱりだめで、それ以上の基準に達したら今度は自己満足以外の方法がないのではないか」ということと、「非言語表現にメッセージ性を持たせるなら、言語以外で伝達しなければならないメッセージを、必要に応じてやむなく表現する場合のみ有効なのではないか」ということです。