2007-12-09

合法的殺人

どうも僕は、錦の御旗が振られたあとの殺人行為に対して鈍感になっているようだ。僕はテレビを見ないし、新聞も読まないので、巷にあふれる殺人情報はめったに耳にしない。おおよそ世間の耳目を集める情報は嘆かわしいことばかりなので(レッサーパンダが立ったとか、そんなニュースばかりでも僕はいいと思う)、自分で耳を閉ざしているようなものだ。誰それが誰それを殺したとか、僕の知らない人であれば僕には関係ないし、僕の知っている人が自殺をしたけれどもニュースにはならなかった。

交通事故で不幸にも亡くなったかたや自ら命を絶ってしまったかたのほとんどは、注目を集めることができないからニュースにならない。当然といってしまえば当然のことだけど死ぬこと自体にはたいした意味がなく、「どのような経緯で死んだか」という物語に意味がある。というか、まわりがよってたかって意味をつける。そうした意味の押し付けに僕は食傷しているので、耳を閉ざしているわけだ。たとえばの話だが、別に複雑な家庭環境が父親を殺す理由になるのではなく、父親を殺した人を調べてみたら複雑な家庭環境があっただけだろう、とか思う。

そんな風に考えているとそのうちに心が荒み、「別に誰が誰を殺そうが勝手だろう」とかの極論に偏るが、しかしそれは違うのだろうと思う。人を殺すのは誰かの勝手でも僕は一向に構わないが、人が本人の意に反して殺されるのは絶対にいやだ。だから僕はカテゴライズすると死刑反対に与するわけだが、それでは重大な犯罪を犯した人間に相応しい罰はなにか、という当然の疑問に応えなければならない。

重大な犯罪を犯した人間が合法的に殺されるのは、ある意味では救済でもあると僕には感じられる。有名な『1984年』や『時計じかけのオレンジ』のように、きちんと洗脳して後々まで生かすほうがより残酷なのではないかと考えているし、犯罪の被害者にとっても加害者が殺されようがなんら解決にはならないと考えている。被害者の関係者にはどうしたって澱が残るし。

合法的殺人に話は戻って、殺人をする人が許せないのなら国家による殺人も許せなかろう。それでいて国家による殺人は案外許せたりするのだから、許せないのは殺人ではなく、慣習的な法に触れる行いなのではないかと想像する。

(未完)

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