2007-12-24

格差社会を擁護してみる

「格差社会」が悪者扱いされているようだから、少し格差を擁護してみたい。明日になったら格差を糾弾するかもしれないが、これは気まぐれのようなものだ。

格差は悪いものではない。少なくとも平等に貧しいよりは。また、格差が生じる原因としては根本的には技術の進歩があると思われる。例えば生産性の向上による余剰生産物があってこそ富の集中がうまれた。それを指標にする限りは、正当に生じた格差は歓迎すべきものでさえある。昨今の風潮を見る限りでは、正当に生じていない格差は縮小しているとさえ見える。

生産手法が閉ざされている場合には残念だったと思ってもらうしかないが、富は生産できる。他人にとって有益であると考えられるもの(例えば生産物やサービス)は何らかの働きによって生み出すことができる。現在廃村になってしまったようなところでも、何らかの技術革新や創意工夫があれば、ひょっとしたらとてつもない富を生み出すかもしれない。

より多くの富を生産できるのは、ひとつの能力である。僕はどれだけがんばってもビル・ゲイツには実業の面で及ばないが、少なくとも日本語の処理能力に関しては彼よりも勝っているし、ひょっとしたら僕は彼より足が速いかもしれない。能力以外の要素も含んではいるものの、富を生み出すのは基本的には能力である。ほとんどすべての日本人はオリンピックの短距離走者に100メートル競走では敵わないし、何度挑戦しても結果は同じだろう。同じようにほとんどすべての労働者(マルクス風な階級の話ではない)は、世界的大富豪には富を生産する能力では敵わないだろう。

本当に大富豪たちはそれに見合うだけの富を生産しているのだろうか、という疑問にはYesとしか答えられない。資本主義社会では基本的には他人がより望むものに多くの価値が与えられるし、その結果を見れば一目瞭然と多くの富を生産したひとがわかる。ある社長が新入社員の100倍の給料を取っていたとしても(僕が取締役をしている会社はせいぜい5倍でしかないが)、100人の新入社員よりも多くの仕事をしあげていることくらい想像に難くない。他にも例えば放送や広告などの大企業では社員の平均給与が高いが、市場が彼らの生み出すものを求めるのだから、結果としてそうなっていようが外から文句を言えることではない。文句を言うなら全員がTVを消して広告を見なければ良いし、快適な生活を送るための家電を使わず、電気・ガス・水道を極力節約して近隣の知り合いから食物を分けてもらえばよいのだ(規制された市場であることはさておき)。

スタートラインが違う、という批判も成り立つ。確かに現在の日本には機会の不平等があるが、本人の働きあるいは文化資本を持っている人間による資産継承の多寡により、多少はカバーされる。少なくとも完全に貧しい状態よりはまだましだ(例えばエチオピア、北朝鮮、バングラデシュなどと比較すればまし、ということ)。

それに格差社会といいながら、携帯電話を持ち、衣食足りている人が多数を占めている状態がすでに、国際的な格差から見れば贅沢な話だ。将来の不安など、今日明日の不安に比べれば悠長な話である。

決して僕が「勝ち組」なわけではないので、あしからず。

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