2009-02-14

『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)を読みました。

もともと僕は批評やら論壇やらというものにさほど興味がないのですが、本書のような批評ははっきりと嫌いです。サブカルチャーを題材にして現代社会の諸相を探ってみるような内容となっていますが、そもそも著者はサブカルチャーを論じたいのか、現代社会を論じたいのか、僕にはまったくわかりませんでした。もしも前者ならば、現代にはこれこれの事象があり、その鏡映としてこれこれの作品を生み出す想像力が形成される、というような論法になるはずなのに、事象に関しては象徴的にしか触れられていませんし、後者ならばサブカルチャーという想像力の産物をもって非想像的なものを論じるわけにもいかないでしょう。もっとも同時代作家たちの想像力というものを過小評価して象徴的な出来事で規定される、という立場をとるのなら文句は言いませんが、それは本当に過小評価です。

上記の二つがない交ぜになっているので、本書は僕にとっては不可解なものとなりました。取り上げている作品を丁寧に構造分析する様やものすごい単純化をする様は見事ですが(牽強付会とか無い物ねだりだろうという感想もあります)、社会を論ずるには題材不足です。

「大きな物語」から「小さな物語」へという流れもよく言われることですが(そしてその正当性に僕は多少の疑問を持っていますが)、本書では「小さな物語」のなかでも「引きこもり/心理主義/セカイ系」から「バトルロワイアル/決断主義的動員ゲーム/サヴァイヴ系」という流れを想定しています。確かに作品群ではそのような流れがあったのでしょうし、心性あるいは作家の想像力という面では傾向として正しく解説しているとは思います。しかし、本書の記述は実際のデータに依存せずに、言論に言論を重ねるような思索(僕の感想を正直に言えば「思い込みと思いつき」)から生じているため、果たしてそれは本当なのだろうかという疑いが常にまとわりつきます。もしも本当なら誰にでも追跡調査できるようにデータを挙げろ、と言いたくなります。あたかも、この世界にはつきものの印象批評がいまだに罷り通っているようでした。

「小さな物語の決断主義的動員ゲームが破綻しないように、プレイヤーがゲームの設計そのものを変更しながら運営してゆく」というような結論というか、筆者の模索している具体的な行動指針も、まったく新鮮みがありません。既に80年代のフランスで言われていたようなことを言葉を換えて言い直したようで、僕は面白くありませんでした。

まあこれは僕の趣味の問題ですので、思想好きには魅力的な本なのでしょうね。僕は思想よりも地味な調査や観察やデータ対話式理論や経験の蓄積に基づいた暗黙知や純粋な論理が好きです。

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