2008-10-27

『"文学少女"と穢名の天使』

"文学少女"と穢名の天使 (ファミ通文庫)』(野村美月)を読みました。もう完全に"文学少女"シリーズの虜です。

今回の下敷きは『オペラ座の怪人』でした。オペラ座の怪人は映画にしてもミュージカルにしても色々なアレンジがあるので、この作品はどんなアレンジだろうと興味深く読みました。といいつつ、僕は原作の翻訳と映画数本(アーサー・ルービン監督、ドワイト・H・リトル監督、ジョエル・シュマッカー監督くらいかな?)に触れているくらいの未熟なオペラ座の怪人鑑賞者です。スーザン・ケイの『ファントム』なども読んでいないし。そもそも何故オペラ座の怪人はこれほどまでに多くのリメイクをつくるのか、その肝心なところがわかっていないのですね。それでも原作の翻訳には耽溺した覚えもあります。

さて、本書はこれまでの文学少女シリーズとは少し色合いが違いました。文学少女である遠子先輩があまり活躍しないからなのか、キャピキャピワキワキという雰囲気ではなく、うっすら暗くて重くてシリアスなストーリーでした(いや、これまでの作品もそれなりにはシリアスなところもあるのですが、大雑把に見るとキャピキャピだと思います)。『オペラ座の怪人』の色合いをなぞっているのだとは思いますが、陰鬱な話の最後には光明が見える、そんな感想を持ちました。

本書を一作品のみとして見ると、ずいぶん作者の筆がすべっているような印象も持ちました。あまりにも都合のよすぎる偶然やら、耽美耽美しようとして失敗しちゃったかなという文章やらが散見されますし、本書で登場する人物の描写は平板な感じです。これまでの作品でもそういう部分は多々見られましたが、本書ではそれが目立つのです。もっとも偶然は小説には必要不可欠なものだし、現実はとてつもない偶然から成り立っているとは思いますし、文体や人物の描写などと言ったことは僕にきちんと味わうことができるかどうか疑問ですが。

作者がどのように『オペラ座の怪人』を解釈しているか端的にあらわすのは、「この物語は哀しみにあふれていて、美しいわ。/暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく」という遠子先輩の台詞だと思います。この解釈に異を唱えるわけではありませんが、この解釈をもとに描かれた本書の中心的なテーマかも知れない「真実は人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか」と言ったところは、冷静に読むと僕の価値観とは合いません。真実はディスクールの数だけ存在する、というようなポストモダン的な観点は、僕に巣くっている客観性を希求する性質とは相容れないのです。確かに人間の数だけ立脚点があり、各々が本当の物語を紡いでいるだろうけれども、そういうものは「真実」とは言い得ないものではないか、と僕などは考えてしまうのです。むしろそうした本当の物語が多数同時に存在し得るからこそ、オペラ座の怪人はたくさんのアレンジがつくられるし、人文・社会科学が普遍性を持ち得るのではないかな、と。つまり僕は人間の行為については信頼性のある客観的なデータだけが真実で、そうでないものは物語であると考えているのです。カール・ポパーによる科学哲学の影響をものすごく受けていますが、反証不可能なものについてはそれが「真実」であるかどうかを語ることさえナンセンスであるということです。

と、後からそんな感想も持ちましたが、そうした感想は本書を読んでいるときにはあまり持ちませんでした。痛い話だけれども甘酸っぱくて、それはそれで素敵、という感じで読んだのは、これまでの作品があるからだろうと思っています。シリーズ作というものはそういうところで得をしますね。それはともあれ、ツンデレの見本である琴吹さんが大活躍するので、少し安心しつつヤキモキさせられました。僕は既にこのシリーズの罠にはまっていますので、今後の展開が楽しみです。

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