2008-10-03

ケータイ小説的。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(速水健朗)を読みました。ふ~ん、という感じで、目次を読めば大体予想がつく内容でした。参考までに著者のサイトの書籍紹介をあげておきます。

本書ではケータイ小説がどのようなものなのか、というよりもケータイ小説を生んだ社会はどのようなものか、という視点で書かれています。これはきっと著者には荷の重いテーマだったのではないかと思います。

ヤンキー系雑誌・漫画と浜崎あゆみさんの歌詞の関連性は、本書で指摘されてはじめて気がつきました。その具体性を欠く抽象的(あるいは曖昧な)表現や、不幸自慢や不幸体験をもとに現在を語るスタンスなど、ここが本書で最もよく書かれている部分でしょう。つまりヤンキー系雑誌がケータイ小説のルーツと考えられる、という点です。

しかしその考え方も突き詰めると無理があります。ヤンキー系雑誌や浜崎さんの音楽は全国に流通していますし、仮にヤンキーと呼ばれる人たちが都市中心ではなく地方部を中心として活動していたとしても、それがケータイ小説の書籍の売れ行きと関連性があるとは言い切れません。はっきり言って偽相関でしょう。もしも相関があるというならば、社会調査の作法に則り、きちんとしたデータを示して欲しいところですが、本書で参照されるデータはせいぜいが都道府県別ケータイ小説書籍の売れ行きのみです。

この偽相関をあたかも相関であるとさせているのは、著者が参照する評論家や学者(残念なことに社会学者が多いです)の「ファスト風土化」「郊外化」などといった言葉や概念のみです。言葉や概念で世相を斬ってみせるのは格好がよいですが、ただそれだけです。ですから著者が書いているような、地方経済で完結する社会や相互扶助の共同体といったものは、論じられてはいるものの(現実に存在するとしても)、この本では説得力を持ちません。

もう一つ読んでいて疑問に感じたのは、ケータイ小説の「リアル」とケータイ小説に描かれる「リアリティ」の関係です。本書では例えば援助交際やドラッグや妊娠人工中絶やなにやら、とにかく「リアル」ではないだろう、としています。そしてそれはヤンキー系雑誌の読者投稿欄に見られる不幸自慢や不幸体験の不幸スパイラルがルーツと考えられるそうです。すると本書の中で書かれていることですが、恋人同士の暴力や過剰な拘束が説明できなくなってしまいます。デートDVは読者の妄想ではなく、現実の問題(あるいはケータイ小説作者の問題)として考えた方がより整合性は高いのではないかと、僕は思いました。

つまり妄想の世界(セックス、ドラッグ、レイプ、などなどのケータイ小説的要素)の問題と現実の問題は、ケータイ小説を経由して現実化しなければ、本書は論理破綻してしまいます。しかしケータイ小説がなくとも存在する問題ですから、はっきり論理破綻しています。

厳しい感想になってしまいましたが、大雑把に読めばよく書けているな、という感想です。ただし社会批評としてはあまりにも調査不足で、流行の言説に乗っかって口先だけの評論を試みているようです。先日読んだ『ケータイ小説のリアル』のほうがよく調査してあるし、分析も適切だと感じました。

なお、本書では最新のケータイ小説事情には触れられていませんし(『恋空』や『赤い糸』くらいまでです)、携帯電話で読まれる本来のケータイ小説も扱っていません。あくまで書籍化されたケータイ小説のみを扱っています。

ケータイ小説はカウンター・カルチャーではなく、オルタナティブ・カルチャーであると、小飼弾さんがブログで書いていたような気がしますが、僕も同感です。異文化に接する場合には理解して尊重する努力をするべきでしょうが、接することがなければ何も知らなくても良いでしょう。

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