2008-08-12

ツ、イ、ラ、ク

ツ、イ、ラ、ク』(姫野カオルコ)を読みました。女性の書いた恋愛小説を読んで「女心のわかる男」になろうという野望です。ついでに言えば、先日『恋愛小説ふいんき語り』を読んだとき、「第一回ふいんき大賞」に選ばれていたのが本作品だったのです。選ばれたといっても、特別なことは何もありませんけれど。

物語は小学校二年生から始まります。随所に素敵な「神の視点」からの解説が入り、小学生の感覚と、それを突き放した大人の感覚が入り混じっているような錯覚に陥りそうです。ところでその「神の視点」が僕にはどうも理解しがたいのです。小学校三年生で「閨房の官能を匂わせてしまうしぐさ」とか、自慰をしたりとか。作中にも「そこは小学二年生、すぐに過去を忘れるのである。十秒前のことでも。よって、子供は純粋だと信じる一部の大人は、小学二年生とまったく同じに過去を忘れる力が優れているのかもしれない」とありますが、僕もその能力に優れているのか、それとも僕の知らないところでそのような官能の世界が繰り広げられていたのか。

物語の舞台が中学校に移っても、「神の視点」とは関係なく、主人公(かな? いろいろな登場人物の視点や神の視点が錯綜しているので)の行動や心理描写が、とても中学生とは思えないほどに成熟しているのです。それでもなお中学生であることを執拗なくらいに言外に主張しています。「中学生」とかぎ括弧でくくってそれらを一般化したときに想起されるものと、その時期を生き抜き、周囲や内面の観察も怠らず、しかもそれを忘れずにいたならば想起されるものと、どれほどの距離があるのでしょう。僕はぼんくらか、それとも物忘れの能力に長けていたのか。

そしてさらに主人公たちが34歳になったとき、ようやく僕は物語についていくことができる凡庸な読み手となりました。主人公たちが僕と同年代になったときに、ようやく僕の忘れていたものを思い出させるのです。思春期とはこのようなものだなどと美しい感傷に浸るのではありません。ロマンティックに思い出させるのではなく、あくまでもグロテスクなくらいにリアルに。素敵な「神の視点」は主人公たちを容赦なく突き放して冷静に観察していますが、凡庸な読み手である僕は観察される側に回ってはじめて、主人公たちに共感することができました。この作家は中毒になりそうですね。

どうやら僕はまだ「女心のわからない男」でいるしかないようです。

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