2008-08-01

ポル・ポトの伝記

ポル・ポト伝』(デービッド・P・チャンドラー)と『ポル・ポト』(フィリップ・ショート)を平行して読みました。両方ともほとんど時系列的に書いてあるので、平行読みしやすいのです。

伝記だから、面白いとか面白くないとか、そういう感想は持っても書きません。ただ、両著者のスタンスの違いと、発行年の違いからか、印象としてはずいぶん違う本のように感じました。ちなみにチャンドラーは歴史家で、『ポル・ポト伝』は原著1992年発行。ショートはジャーナリストで、『ポル・ポト』は原著2004年発行です。

まず記述の量が、後者のほうが圧倒的に多いです。単なるページ数の違いかもしれませんが、『ポル・ポト』は先行研究を踏まえたうえでさらに一次資料によって構成されているので、当然のことでしょう。ショートも謝辞の中でチャンドラーの研究をあげています。

次に学者的想像力なのか、それとも資料不足なのか、チャンドラーの著作にはポル・ポトやクメール・ルージュの取った行動に対して理由付けを試みることが多いです。しかも良心的に慎重に。カンボジアの思想的背景や仏教の影響などから推測しているところで「と思われる」という記述がよく目に付きました。

訳者の違いもあるとは思いますが、固有名詞の表記はずいぶん違いました。というか、前者には固有名詞に限らず「誤訳かな、これ」というようなものもちらほらと見られます。

で、併読して何がわかったか。まだ未消化ですが、クメール・ルージュの成り立ちから現在までの大まかなところがわかったような気がします。周辺諸国や国内の歴史的な偶然や、カンボジアの過去の偉業と民族主義的愛国心や、治世に対する無知・無能や、指導者たちの楽観的歴史観など、複合的な要因からカンボジアの悪夢が現実のものとなった、といってしまうのは単純すぎますね、きっと。

歴史に「if」は禁物ですが、現実となったことを調べ、理解する作業はどうしても評価が付きまとってしまいます。もしもあのときにこうした状況だったら、などなど。未だにクメール・ルージュを国際裁判にかけることができないでいるようですが、関係者が高齢化し、カンボジア人口の多くが民主カンプチア時代を知らずに生きている現在、何らかの評価はしなければならないと強く感じます。

公言はしなくとも、少なくとも自分の中では何らかの評価は作られつつあります。まだまだ「超個人的クメール・ルージュ祭り」は続く予定ですし、きっとこの二冊は再読するでしょう。

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