2008-08-29

ケータイ小説は文学か

ケータイ小説は文学か』(石原千秋 ちくまプリマー新書)を読みました。実際ケータイ小説が文学であろうとなかろうと、僕はあまり興味ありません。少女小説やコバルト文庫の流れに乗せられるものなのか、ライトノベルとの接近は今後ありうるのか、といったところが僕の興味です。

本書では「ケータイ小説は文学か」という問が意味をなさないことを指摘し、「ケータイ小説が文学への入り口になってくれればそれでいい」という言い草の欺瞞性を説き、「リアル」と「リアリティ」の区別をして、ケータイ小説の「少女的リアル」を指摘しています。結論としてはケータイ小説はポスト=ポスト・モダン小説という見地が見られるとのこと。

とまあ、あまり面白可笑しくない本だったのですが、ちくまプリマー新書でロラン・バルトとかジャン・ボードリヤールとか、ミシェル・フーコーとか持ち出して議論を進めるのには、編集部のストップがかからなかったのが不思議です。

でもケータイ小説のアイテムが列記されているところには感心しました。
・「誤配」が恋の特徴である(誤った相手と結ばれること)
・レイプされた少女は自分を「汚い」と感じること
・「中途半端」な態度が一番責められること
・「未練」が物語を複雑にすること
・告白することに重要な意味があること
・男には女を守る義務があること

ポスト=ポスト・モダンですが、筆者はフーコーの「真実のディスクール」や「パレーシア」という概念を取って論じています。フーコーは、性に関する言説がその人の「真実のディスクール」となったのが近代という時代である、といっています。そして自分だけの真理を語ることによって普遍的な真理を相対化・複数化・多元化するのが「パレーシア」です。ケータイ小説では自分の体験という真実・真理を元に書かれたことにされていますが、そこで性に対して働いていた「真実のディスクール」が空洞化して「パレーシア」の複数性を失ってしまった、というところからポスト=ポスト・モダンとしています。

ちょっと穿ちすぎじゃないですかね。議論のための議論という感じがして、僕は納得できませんでした。

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