2008-08-19

物乞う仏陀

物乞う仏陀』(石井光太)を読みました。カンボジア、ラオス、タイ、ベトナム、ミャンマー、スリランカ、ネパール、インドの障害者を訪ね歩いたルポタージュです。

あらかじめ断っておきますが、「障害」は人によっては「障碍」と書いたり「障がい」「しょうがい」と書いたりしますが、僕は「障害」と書きます。概念として「インペアメント」「ディスアビリティ」「ハンディキャップ」といった線形モデルがずいぶん前にWHOから出されていますが、障害者団体によってはそれは医学的なモデルであると批判して、障害は社会的に規定されたものであるとする社会モデルを提唱していたりします。つまり日本語で「障害」と書いたときに意味するものは多様だ、ということで、僕はその多様さをすべて「障害」という表記で受け止めるつもりはありません。

さて、筆者の取材対象は障害者ですが、その多くは乞食や物売りとなっています。それがタイトルの「物乞う」になっているわけですが(「仏陀」は微妙にわかるようなわからないような)、国や地域によって本当に多種多様な生活があるものだと刺激を受けました。僕は障害者の介助をして生活費と学費にしていたし、肉親にいわゆる障害者がいるし、さらには「施設などに入らず、社会的役割を担い、経済的・精神的に自立して生活しようとする運動」の調査をしていたこともあって、その分野は興味本位ではない理解をしているつもりでいたのですが、東南アジアから南アジアにかけての障害者(それが先天的なものであろうと後天的なものであろうと)の実態を知ることはありませんでしたから、筆者の限られた見聞から得られた情報とはいえ、まさに刺激でした。

例えば障害者と社会生活との繋がりひとつとっても、筆者の出会ったカンボジアの傷痍障害者たちはあっけらかんと仲間同士で楽しく乞食をして、その稼ぎで酒を買い、買春をして使い切ってしまうとか、タイの全盲の障害者はおそらくマフィアとのつながりを持って路上でカラオケを歌って稼ぎにしているとか。近代化・都市化された地域での障害者はおおむね差別や偏見にあっているけれども、農村ではそうではなく地域社会での生活手段を割り当てられていたり、またはその逆に都市ではないからこそ無知や偏見からまったく見殺しにされていたり、筆者の見た実情は様々です。

もちろん僕の目から見たら苛酷な生活環境です。かつて僕が調査して回ったときにも、こうした状況には出会いませんでした。しかしなぜか生活が光っているように見える記述が多いのです。例えば家族を養うために乞食をする、買春をするために乞食をする、子供を学校に行かせるために乞食をする、れっきとした職業として乞食をする。そうした人々の中に何が宿っているのか、本書の文面からはうかがい知れないものさえあります。金銭的な面でなくとも、日常生活では冗談を言い合い、他愛もない世間話に興じ、笑い転げています。

なお、本書の最後(ムンバイ/ボンベイ)ではとても個人では扱いきれないほどの問題が提供されていました。マフィアが乳幼児を誘拐する。誘拐した乳幼児をレンタチャイルドとして乞食に貸しだす。レンタチャイルドは5歳頃に手や足を切られるなど何らかの障害を負わせられる。障害者として乞食になり、マフィアがあがりを掠める。マフィアも元をただせばストリートチルドレン出身だったりする。こうしたループで循環する、という問題。ただ問題が提供されるだけで、どうしろというものではないですが、どうにもしないというわけでもなし。ただただ「そこにそういうことがある」と認識するだけです。

本書を僕はとてもよい本であると評価しています。筆者の体当たり的な取材は視野が狭くなる危険性もありますが、本書に書かれている限りでは、筆者はきちんと取材対象と付き合っています。例えば友人として、協力者として、恋人として。こうした付き合い方や視点の置き方はフィールドワークの技法から言えば常軌を逸しているかもしれませんが、これもひとつの方法であると、僕は断じます。

あと「超個人的クメール・ルージュ祭り」がらみですが、現在のカンボジアでポル・ポト時代について触れてはいけない風潮になっているのは、当事を生きのびた人は直接にせよ間接にせよ粛清に関わっている可能性が高いためである、ということをおぼろげながら理解しました。他の書籍でも触れられてはいるのですが、本書の障害者を取材対象とした記述でも、はっきりと「何人殺したんだ?」という取材を仲介した人の発言が書かれていますので。

0 件のコメント: