2008-08-13

対話篇

対話篇』(金城一紀)を読みました。

一読した感想は「恥ずかしい」です。しばらく反芻して「村上春樹さんに似ているな」、そして「哀しい」と感じました。

「恋愛小説」「永遠の円環」「花」という3つの短編が収録されています。一篇ずつ本を閉じながら読みましたが、小説のディテールを削ぎ落として(こういうことをするから「女心がわからない」といわれます)骨組みだけを取り出すとほとんど何も残りません。不思議な能力があったりどうしようもない偶然があったりといった仕掛けは残りますが、要するに恋愛そして死と直面するときに何を思い、感じ、行うかという、小説の王道です。

決して貶しているわけではありません。小説の面白さは骨組みにもありディテールにもあります。そしてこの作品はディテールがとても印象的です。

「会わなくなったら死んじゃうのと同じ」

とか、
「あした、死ぬとしたら、何をする?」
Kの手がノブから離れ、頭がゆっくりとまわった。僕とKの視線がふたたび交わった。
「半年前、ある人にそう訊かれたんだ。僕はこう答えた。『好きな人のそばで過ごす』」
Kの顔に、同情とも嘲笑ともつかないかすかな笑みが浮かんで、消えた。

とか、
「本当に間抜けな話だよ」鳥越氏は、情けない声で言った。「私は彼女のことを本当に忘れてしまったんだ。それも、初めは忘れることに痛みをともなっていたのに、次第に痛みをおぼえることもなく、それがあたりまえのように記憶を失い続けてきたんだ。あんなに愛していたはずなのに……」


絶妙な会話回しで、心の襞をなでられるような感触です。そしてそういう感触は僕にとっては「恥ずかしい」ものなのです。

少し独り言をしますが、僕は死と直面したことがあります。聞き伝えなのでいい加減な数字ですが、僕は呼吸停止約40分、心臓停止約5分という記録保持者です。幸い現在も生きていますが、そのときは医者からは絶望視され、両親ともにあきらめかけたそうです。蘇生したときも「何らかの障害は残ります」と宣言されたそうですが「女心がわからない」くらいの障害にとどまっています。おそらく恋愛もしたことがあります。

さて、恋愛や死と直面したときに何を感じ、思い、行動するか。案外素直なもので「ラーメン食べたい」とかかもしれません。そこにウェットな物語も生じるかもしれません。しかし現実は小説と同じくらいに奇なもので、「何もありませんでした」という一番非ドラマティックなこともあります。そのたくさんの可能性のうち、小説に適したものを選択せずには小説として成り立ちません。そこに「恥ずかしさ」を感じてしまうのです。

もうひとつの読後の感想。そして文句なしに感動的な作品でもあります。人と会いたいな(配偶者と子供は帰省中)。

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